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傷ついた鹿 第5話

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 眠る時間がやってきた。ぼくたちは寝室のベッドに一緒に横になり、一つの掛け布団に仲良く収まっていた。とはいっても、性的な遊戯を行うわけではない。ぼくたちは互いに性的な欲求をほとんど失っていた。あるのは搾りカスのようなものだけで、干からびたオレンジを絞ってようやく出てきた一滴を楽しむことはあったものの、そういったことはまれだった。ただし、今となってはその状態が二人で静かに森林の側に住んでいるという特殊な状況がもたらしたものだったということがわかる。君がいなくなった今、その寂しさを埋めるためなのか、元々あった空白が再び開かれたためなのか、ぼくは性欲を強く感じ、それを処理する必要に苛まれることとなった。君はどうだろうか。君が去っていってしまってから、最後に電話をかけることができたとき、君は自分が精神的な娼婦であり、数々の男たちのあいだをさまよい歩くことで、精神的な報酬を得て、心の安定をはかっていると言った。そうぼくに伝える君の声は小さく震えていた。君が感じているのは寂しさではなく、空虚さでもなく、純粋な恐怖であるということがわかった。君は明らかに悪しき存在としての君自身をぼくに否定されることを恐れていた。普通の人間ならば、そのような自身のいかがわしい部分は他人には見せず、自分を守るために隠し通そうとするだろう。君も始めはそうだった。だけれど、そのような場合において、隠すべき自分自身は他人の代わりに、自分自身の前に強烈な存在として立ち現れてくる。そしてぼくたちに語りかけてくるのだ、〈お前は、本当は、その性根において愛されない存在なのだ、見捨てられるべき存在なのだ〉と。人間は、〈これが起こってしまうかもしれない、いや、いつか必ず起こってしまうのだ〉という激しい恐怖にさらされ続けると、その可能性に対する恐怖に耐えきれなくなり、むしろ可能性を現実へと移行させることで恐怖を乗り越えようとする。崖の縁を延々と歩くように命じられた罪人は、奈落へ落下する可能性としての恐怖に耐えきれず、ついには自ら身を空中へ投じてしまうのだ。

「私は普通じゃない」とベッドでぼくの隣に横になっている君は言った。「あなたはもう知っているでしょう? だから私のせいで、私たちは三十代になって結婚もせず、いまだに恋人ごっこをしている」

「知っている。そしてぼくも普通じゃない。これは別に悪いことじゃない」とぼくは答えた。

「もし私と別れれば、あなたはたぶん他の誰かと結婚するでしょうね。子供だってネズミみたいにぽんぽん作るでしょう。私とはできていない普通の幸福な生活を手に入れることができる。それは素敵なことだと思わない?」

「もしそういった生活を送っている普通の人がここにいたならば、その人はきっと〈悪くないよ〉と言うだろうね。でもここにはそういう人はいない」

「あなたはそういう風に幸福になりたいとは思わないの?」

「幸福になりたいとは思っているよ、ただしぼくなりのやり方で。そしてすでに幸福だ。ぼくはこのようなかたちでしか幸福になれないんだよ」

「でも、東京の街のなかに住む人々は私たちの幸福を懐疑的に捉えるでしょうね。それは一般的な幸福の定義から外れたものだもの」

「だからこそぼくたちはこの森の側の土地に越してきた。そうだろう? 他の人々の考え方に則るのではなく、それに飲みこまれるのではなく、ぼくたちの考え方を育てて確立するために」

「小さな苗木を育てるみたいにね」と君は言った。「でもその幼木の根の一部がすでに腐っていたとしたら?」

「どういうこと?」

「私たちは根が腐っているかどうか知らない。それは土に埋められて隠されているから。でも木は確実に弱っていくの、最初は順調に成長しているように見えるけど……。そして木が明らかに枯れ始めたとき、あなたは初めて土を掘り返し、根が腐っていたことを発見する」

 ぼくは暗闇のなかで君の口元を見つめた。

「君は、もうすでに根が腐り始めていると思っているの?」

 君は沈黙をもって答えた。外であいかわらず鳴き続けているはずの虫たちの声は、その沈黙によってかき消えた。

 君は眠った。規則正しい寝息を聞きながら、ぼくはぼんやりとしていた。やがて君はささやいた。

「起きてる?」

「起きてるよ」

「夢を見たの」

「どんな夢?」

「あなたと二人で森を歩いている夢。季節は春で、晴れてうららかに輝く森を、マスクもなしに軽い足取りで歩いていた。私たちは汚れたジーンズをはいて、着古してよれよれになったシャツを着ていた。森に行くときは着ない、家のなかでリラックスするときの恰好ね。でも、そんな楽な恰好で森を歩くのは楽しかった。歩いていると、暖かい風が木々の葉を揺らして、葉たちはざわめきの歌を歌った。……そして私たちはスギの植えられた暗い区画に入っていった、古代ローマの神殿にある柱廊の柱みたいに、長くまっすぐに突き立った樹幹が密になっているなかに。私たちはその森の暗い部分のさらに暗い奥の、その中心に向けて歩いていった。いつの間にか私たちはお互いに裸になっていた。舞い上がった土埃や、木々の花粉で構成された森の湿った空気が直接全身に触れるのがわかった。そしてもう何もわからないくらい暗くなった森を、夜になっても、私たちは歩き続けていた」

「怖くはなかった?」とぼくは聞いた。

「うん、怖くはなかった。それに今もまだ夢の延長線上にいて、まるであの暗い森を歩いているような気分がするの」

「ぼくと一緒に?」

「そう、あなたと一緒に」君は笑った。そしてぼくの胸に頭を押しつけた。

「森の奥で、初恋の人と会った」と君は言った。

「へえ、そうなんだ」とぼくは驚いて言った。君が初恋について語るのを聞くのはこれが初めてだった。

「会ったといっても、その人はただスギの倒木に腰かけていただけ。森は本当に暗かったけど、なぜかあの人の周りだけ明かりが灯っていた。喋ることもなかったし、あの人が私たちに気づいていたかもわからない。私はあなたに伝えようかどうか迷ったけど、結局、無視して通り過ぎるべきだと思って、顔を背けてやり過ごそうとした。すると突然、あの人は何かに気づいたかのようにぱっと立ち上がったの。こっちを見てはいなかったけれど……」

「その人も裸だった?」

「いいえ、たぶん服を着ていたと思う」君は微笑んだ。「その人は、私が二十歳のとき、初めて性的な関係を結んだ人なの。彼も私も大学生で、お互いにそういった関係にはまだ慣れてはいなかった。私たちはお互いに恋をしていた、けれど、彼の方の恋は私とは少し質の違うものだった。言っている意味はわかる? 彼は私の心というよりも、肉体の方をより愛していた。そして初めてのとき、彼は部屋の電気を消してくれなかった。私は消してくれるように頼んだのだけど、あの人は取り合ってくれなかった。私は強く言うことができなかった、嫌われたくなかったから。かわいいでしょう? 普通の女の子みたいで。彼は私の全てを知りたいと言った。そして実際に全てを知った。そのあと、私は激しい無力感のなかにいる自分を見つけた。例えばあのときあの人が私を殺そうとしたとしても、それが愛の名のもとに行われる行為ならば、私はまったく抵抗できずにあっさりと殺されてしまっただろうなということが、はっきりとわかってしまうような無力感。私は何かによって完全に支配されてしまっていた。巨大で暴力的な何かに。決して抗うことのできない何かに。それは私の内部に元々あったものなの。

 電気を消さなかっただけでそうなるなんて。あなたはそう思う? でも私は行為の最中に気づいたの、私は今、ものすごく嫌な気持ちになっているって。でも中断することはできなかった。なぜだと思う?

〈気持ちよかった?〉と彼は最後に聞いたの。こうこうと輝く天井の照明を背後にしながら。

〈うん〉と私は微笑んで言った。

〈よかった〉と彼は言った。

 そして、私は嘘をついたわけではなかったの。それから、私たちはいびつな生き物のように同じことを繰り返した。彼と別れてからも、他の男の人たちと、私はずっと……」

 君は泣いていた。ぼくは君の頭を撫でながら、君が再び夢の世界へと行けるまで、ずっと秋の虫たちと共に起きていた。