小雨が続いていたある日、ぼくたちは〈赤い道〉で死んだ小鹿と出会った。この森林で鹿を見かけること自体は珍しいことではない。散歩をしている最中にその姿を草木のあいだに何度見かけたことか。森で会う動物は鹿だけではなく、ぼくたちは何か小さな生き物が近くの草むらを駆けていく気配を感じることが良くあった。イノシシらしき足跡を見つけたこともあった。ニホンザルの群れが木々の高みを移動しているのさえぼくたちは見たことがある。ぼくたちは森を歩くときは常に、スズメバチや毒ヘビなど小さくて危険な生き物や、クマといった非常に大きな脅威と意図せず出会ってしまうことを恐れていた。だから動物たちの気配や痕跡に敏感になっていた。
ところが、死んでいる動物に会うのはこれが初めてだった。動物たちはいかにして森のなかで死ぬのだろうか? 森のなかの死は、それは日常的なものであるのに違いないのだけれど、ぼくたちの前からは巧妙に隠されていた、まるで死だけを覆い隠す自然の作り出した透明なカーテンが木々のあいだに張り巡らされているかのように。そしてその理由をぼくたちは死んだ小鹿を見つけたことによって知った。
その小鹿は目玉を失っていた。鼻のついた先端に向けてなだらかに収束していく三角錐のかたちをしたその頭部の両面には、ぼっかりと穿たれた大きな黒い穴があり、それは影に覆われた粘膜のくすんだピンク色をその奥に隠していて、カラスか何かにえぐられて奪われたのだとわかった。同様に、小鹿の口内や、肛門といった柔らかい部分は小動物にまっさきに齧りつかれたらしく、その周辺の毛皮は乾いた血によって汚されていた。森のスカベンジャーたちは最初にそのような取っつきやすく食べやすい部分を狙うのだ。そして皮や筋肉といった面倒な部分にも辛抱強く齧りつき、切り分けて自分の巣穴へ持ち帰ったりしながら、月日のたたないうちに全身を喰い尽くしてしまうのだろう。だから森で動物が死んでも、ぼくたちの前に現れる前に死骸は綺麗に処理されて消えてしまうのだ。
「でも、骨はどうなるんだろう? 肉が食い尽くされても、最後には骨が残るはずだ」とぼくは言った。
「骨も食べる子がいるんじゃない? 犬だって骨を齧るっていうし。森に住む動物たちは常に飢えているから、口にできるものはなんだって食べちゃうんだよ」と君は小鹿の死骸から目を離さずに沈んだ口調で言った。
小鹿は異様に長く見える首をぐっと伸ばし、四肢はわずかに内側に曲げるかたちで、赤い松葉の敷物の上に倒れこんでいた。小雨がその身体に降り注いでいる。小鹿の身体はささくれて半ば剝がれている樹皮のように固く頑固な太い毛に覆われ、その毛が水をはじき、そのまま毛先へと滑っていった水滴が全ての一本一本の先端から垂れ下がっている。そして新しい雨粒がやってくると、やはり先端に向けて滑ってきて、元々そこにあった水滴と合体し、重みが増えて耐え切れずに地面へと、あるいは下にあった別の毛の表面へと落ちていく。同じことが小鹿の体表という無数の毛の世界で果てしなく繰り返されている。腐臭は感じられなかった。そのことからも、まだ死んで間もないということがわかった。
「飢えて死んだのかな?」とぼくは言った。
「そんなに痩せているようには見えないけど」と君は言った。「この子の首を見て。ひどい傷があって、血がたくさんこびりついている。他の動物たちが引っかいたり、牙を突き立てて傷ついたりして、ここまで逃げてきたけど、力尽きてしまったのかもしれない」
「クマとかがやったのかな」小鹿とはいえ、タヌキやキツネの体躯よりかは上回るその身体の大きさから、他の動物にやられたのだとしたらクマしか考えられなかった。
「牡鹿の角に突かれた、と考えることもできない? そんなことが実際にあるのかどうかはわからないけど……。それ以外にも、猟師に殺された可能性だってある。首元を撃たれたんだよ。猟師がこんな風に殺した獲物を放っておくとは考えづらいから、やっぱり仕留めきれずに、この子は自力でここまで逃げてきたのかな」
鹿の死体の側に立っていると、ぼくたちは出口のない完全に閉ざされた狭い空間のなかにいるような気がした。命の抜けた鹿の身体は、この森林においてどこまでも開かれ、無防備だった。もはやこの小鹿はこれから自身の肉体に起こるどんなことも全て受け入れていかざるを得ないのだ。小鹿の身体は爪と牙によって無造作に切り裂かれ、喰われていき、やがてそのなかにある全てが暴かれるだろう。そしてぼくたちの直面したこの〈暴かれる〉という避けがたい状況が、君に精神の不調をもたらし、ぼくの元から去っていってしまった原因になってしまったのではないかと、ぼくは考えている。
その日の晩、君は食欲がないといって夕食を食べなかった。築二十年の古びたアパートの一室で、駅の裏手にある山の近くにあり、秋の虫たちの鳴く音が雨に交じって部屋に響いていたが、それゆえにぼくたちはこの部屋が優しく静まり返っていると感じた。ぼくはローテーブルを前にして夕食を食べ、君は後ろのソファに座りこんで本を読んでいた。ぼくたちは森から自宅へと車で帰ったあと、そのままウインドブレーカーを着こんで傘をさし、フリーダ・カーロの絵を見に図書館まで歩いていった。そこで君は本を一冊借りてきたのだった。
「そういえばさ、冷蔵庫にたまご豆腐があったはずだよ。それを食べたら?」とぼくは心配になって言った。
君は微笑んで首を横に振った。うねりながら落ちてくる髪を結ばすにそのままにしている君はまるで茂みのなかから顔を出した一匹の山猫のようだった。
一方で、小鹿の死体を見たぼくの方も食欲はある程度減退していた。ぼくは豆腐とほうれん草のみそ汁だけを作り、納豆をおかずにして炊いたご飯を食べた。明日の朝食もたぶんこれと同じものになるだろう、と思った。
「一週間後、またあの〈赤い道〉を訪れたとき、あの子はどうなっているかな」と君は言った。ぼくたちの週末の休日は今日で終わり、明日からは東京の中心へ仕事に行かねばならなくなる。そうなると森林へ散歩しに行く余裕がなくなるので、再び〈赤い道〉へ赴くのは週が一回転したあとになる。
ぼくはスカベンジャーたちに喰われ、それでも完全には喰われきれないために腐っていく肉の部分がある、不完全な形態としての小鹿を想像した。カラスは腸を引きずり出して遠くへ飛んでいくだろうし、タヌキやイノシシは胃と心臓をその場でその小さな牙で噛みちぎるだろう、鼻づらを血と崩れた腐肉でいっぱいに汚しながら。ぼくたちの前に現れるのは血と肉としての小鹿だろうか、あるいはそれらが綺麗さっぱり除去された骨としての小鹿だろうか。それさえなく、小鹿そのものが消え去っているのかもしれない。
「わからないな。一体どうなっているんだろう」と僕は言った。
「あの子、今頃は誰かに食べられているのかな」
「そうかもしれない」とぼくは言った。そして君がぼくと同じようなことを考えていたのだと気づいた。
「フリーダの〈傷ついた鹿〉のように、綺麗なままではいられないのね、当たり前だけれど。あの子は死んでいるのだから。抵抗なんてできずに、あの子の中身は全て暴かれ、飢えた獣たちによって外の世界に引きずり出されてしまう。……あの子にはそれを防ぐことはできない。でも、私たちがあの子を埋葬してあげたとしたら、どうかな。あの子は自分の醜い姿を晒さなくてすむ」君は一つの希望を見いだして声を高くして言った。
「それはいい考えだ」とぼくは言った。けれど、時間的な制約があることは、君もぼくもわかっていた。
「穴を掘るにはシャベルがいるけど、私たちは持っていない。明日の朝、買いに行ってそのまま森に行ければいいんだけど、そんな時間的余裕はないね。結局、来週まで待たなくちゃいけない」と君は言った。
「明日、仕事から帰ったときにシャベルを買って、埋めてくるよ」とぼくは言った。
「いいえ、駄目。夜に森を歩くなんて危ない」
ぼくたちは黙った。来週には小鹿の身体はどうなっているかがわからない。恐らく起こりうる大抵のことが起こったあとであろう。ぼくたちの埋葬の目的から考えると、もう遅いのだ。しかしだからといって君はその小鹿を放っておくことはできなかった。形式的な儀式になろうとも、ぼくたちは小鹿を埋葬せねばならなかった。