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傷ついた鹿 第2話

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 ぼくたちが二人で奥多摩の近くへ越してきたのは、互いに東京の中心で働き続けなければならない状況がありながらも、その生活のなかで何とか二人だけの空間を作りたい、という願いによるものだった。要するに、ぼくたちはできるだけ自分たち以外の他人と関わりたくなかった。他人と関わることで、ぼくたちは自分自身を発見する。目の前にいる他人によってぼくたちは劣った人物になったり、優れた人物になったりする。そして人間は、特に東京の中心にたむろする人間は、どうしても自然に発生してしまうこの自分という認識をより強固に、より粘着質のあるものにしようとする傾向がある。自分は価値ある人間なのか。みじめな存在なのではないか? もしそうだった場合、この人生に意味はあるのか? もちろんぼくたちもそれに囚われて東京にやってきた者であることに違いはない。ぼくたちは共に優れた人物にならなければならなかった。そのような信念を持っていた。しかし、とても残念なことに、ぼくたちはそのような優れた人物になれるような社会的素質のある人間ではなかった。ぼくたちは我に返るために、自らの性質を痛みによって承知するために青年時代を犠牲にしたといっても過言ではない。そしてやっとのことでぼくたちの周りに自然に存在していた、ぼくたちの性質に合った、心地よい生活の流れに気づき、それに逆らわず、身を任せて日々の生活をこなしていこうと決めたのだ。そうしてこの土地に移ってきたのは、互いに三十歳を過ぎたときだった。

 人の信念はどこからくるのか? その一つの由来が幼少期の経験であることは間違いない。ぼくたちは誰もがかつては小さくて無力な子供だった。そしていつも近くにはぼくたちを力づくでどうにでもできる恐ろしい大人たちがいた。大人たちはぼくたちに正しいことと誤ったことを教えた。正しく振舞えば彼らは満足げに頷き、間違ったことをすれば怒りにまかせて怒鳴りつけるか、もっと悪ければ暴力を用いた。そしてぼくたちは他人とは自らを容易に傷つけうる極めて危険な存在だと学んだのだ、そのように他人を極端な理解の枠にはめることなく幸福に生活できるように育てられた別の子供たちがいることも知らずに。……君はかつてフォークナーの「アブサロム、アブサロム!」を読んでいたね、あれはぼくも前に読んだことがある。プア・ホワイトの家の子であった少年サトペンが、白人地主の屋敷にお使いで訪れたとき、彼は入り口の黒人のドアマンに無下に扱われる。物語の舞台は南北戦争が起こる時代のアメリカ南部で、あからさまな黒人差別があった時代だ。そこで、地位の低い黒人よりも価値のないプア・ホワイトとしての自分を発見したサトペンは、その原体験に生涯囚われることとなる。成長した彼は巨大な権力の屋敷を創造するが、やがてその熱情の源であった自らの信念そのものによって破滅してしまう。ぼくたちの〈他人にとって優れた人物でなければならない〉という信念、これもまたルーツとなる原体験がどこかにあるはずだ。だけどぼくたちの場合、それはもうすでに失われてしまっている。思い出すことはもうできない。ぼくたちにはただ信念だけが残っている、決して燃え尽きることのない燃えカスのように。ぼくたちの人生を狂ったように推し進めてきたもの、そしてぼくたちを破滅へと導くであろうもの。それから逃れ、心地よく過ごすために、ぼくたちは森林の側に移住し、他人の存在をできるだけ遠ざけ、ただ二人だけで森を歩く時間を確保する必要があった。

 森林のなかを歩くときは、着飾ってはいけない。森林はぼくたちを汚し、わずかにでも露出した肌の部分を傷つけようと待ちかまえている。秋の季節のあいだ、ぼくたちは共にウインドブレーカーを上下に着こんで道を歩いた。頭をすっかり坊主にしているぼくはフードをそのまますっぽりとかぶれたけれど、乾燥ぎみで広がりやすい長い髪を持つ君は、ヘアゴムで髪をまとめてはいたけれど、フードのなかは窮屈で、風の強い日はまとまりきれなかった髪の一本が口元にきたりして、なかなか大変そうだった。そのたびに君は「口のなかに入ったよ」といって唇の隙間から舌の先端を突き出し、舌に張りついた髪を手で取り除いたが、そのちょっとしたしぐさがぼくは好きだった。それに君のオリエンタル風の、南国の太陽のように輝く大きく横に長い目が、そのときばかりは半ば閉じられ、それによって君の表情にきわどいバランスがもたらされ、静かに佇む忠実な黒い犬が側にいるような、不思議な魅力と安心感をぼくに与えてくれたのだった。

 ぼくがじっと見ていることに気づくと、君は気まずそうに微笑み、ただ一言「取れた」とだけ言ってくれるのだった。

 ぼくたちの散歩道は、草が刈りはらわれて整備された遊歩道のようだったが、それが実際にぼくたちのような散歩を楽しむ人のために整備されている道なのか、それともある特定の事業者が管理する仕事のための道なのかは、よくわからなかった。誰かとこの道で会うようなことがあれば、その人の身なりなり何なりからこの道の用途がわかっただろうが、ぼくたちはこの道で誰かと会うことはなかった。ぼく一人で歩くようになってからも、それは同じことだ。町の駅の裏手にある低山にある森林の道で、ぼくたちは山の途中まで車で進み、路肩にとめて道へと歩いていった。

 その森林はコナラやクヌギといった落葉広葉樹が主体の森で、秋になると木々は葉を落とす前に美しく紅葉させた。夕日の色が葉に写しだされ、死に向かう過程で水分が抜けていくとより濃い色になっていった。そして死を迎えると葉は木から離脱し、それを手に取って握ってみるとぱりぱりと心地よい音を立てて崩れていった。それでなくてもぼくたちの足元にはどっさりとその枯葉が敷き詰められており、わざわざ手に取らなくても、歩くだけでその小気味よい音を聞くことができた。さらに葉と同じくらい多くのどんぐりも地面に落ちていて、それを踏み割ると固く乾いた繊維が引き裂かれる鈍い音がする。この森の道を君と歩くのは本当に楽しかった。

 しかし雨の日になると勝手が違った。道は滑りやすくなり、道の先はぼんやりと霞んだ。それでも大雨でなければぼくたちはレインコートを着て道を歩いた。雨粒はレインコートにあたると軽い人工的な音をたてて弾かれていく。一方で、森林は雨を受け入れ、自らの内側に保持し、暗く、重たくなっていった。雨の日に森を歩くとぼくたち二人は森に馴染まない明確な部外者であるような気がした。晴れの日に着ているウインドブレーカーが深緑色の落ち着いた色合いのものであるのに対して、レインコートは黄色の発光しているようなけばけばしい色味のものを着ていることもその一因だろう。だが雨の日の森は自身をできるだけ暗闇の方へと近づけようとする。ぼくたち二人はその傾向に逆らい、互いの存在を目立たせ、安全を確保する必要があった。特にスギやヒノキの群生している辺りは太陽が出ていても薄闇を抱きかかえているような場所で、雨の日はほとんど夜の深みが住み着いているような危険な場所になっていたので、ぼくたちは用心して決して近づかなかった。そこに足を踏み入れたが最後、ぼくたちは道に迷って途方に暮れてしまうだろう。