私は彼に声をかけようとして顔をあげた。しかし言葉はでてこず、私は口を閉ざして彼の横顔を見つめた。最初、彼はただぼんやりとしているのだろうと思った。放心したようにして目の前の光景を見るともなしに眺めているのだろうと。しかしそうではないと気づいた。彼はいま全くの空虚さのなかに落ちこんでいた。誰もが例外なく酔いつぶれてにやにや笑う愚か者な享楽家と化すこの場所にいながら、彼の心だけはひどく乾燥した荒野にあり、有益なものも無益なものも、一切をなにも与えてはくれない生ぬるい風に吹かれながら立ちつくしていた。彼はここにいる必然性を実感することができず、そのことが彼に居たたまれなさを感じさせていた。なぜ自分はこんなところにいるのだろう? 我にかえって思わず自問する声が聞こえてきそうだった。
私は無理に話しかけることをやめ、この状況にふさわしい別の言葉がやってくるまで待つことにした。焦る必要はない。物事はなるようにしかならないのだ。
私はコップを置いた。コトリと小さな音がした。
「おれがいま、なにを考えていたかわかるか?」と私は息をはいて呟いた。
「知るわけがないだろ」彼は言った。
「老いについて考えていたんだ。自分の老いについて」
「どういう意味だ?」と彼は言った。彼の声には思いがけず色が戻っていた。
「昔なら焦っていたようなことに対して、おれはいま焦っていない。それはおれが老いたせいだ、そう思ったんだよ」
彼は不審そうに顔をしかめたが、問いつめようとはしなかった。代わりに酒を一口飲んで言った。「おれたちは老いて鈍感になった」
「いつもぼんやりとしていてね。頭は空っぽだ」私は笑った。
彼はちょっとした笑みを返したが、自分の気持ちに反したものであるのに違いなかった。すぐに真剣な表情に戻ってしまった。私は再び彼のなかに苦しみを見た。私の軽口が彼を傷つけたのだとわかった。
「むなしいかい?」と私は聞いた。
彼は少し恥ずかしそうに笑った。手に持っていたグラスから酒がこぼれて彼の指をうすく濡らした。
「むなしさっていうのはいったい何だろうね?」彼は顔を隠すように深くうつむきながら言った。「それはどこからやってくるものなんだろう?」
「いまやっていることが、実は全く意味のない無価値なことだと気づくとき、おれたちはむなしさを感じるんじゃないか?」私はそれ自体が意味を持たないような一般論を言った。
「つまり、空っぽだ。自分が空っぽだと、空虚な存在だと知ることだ。むなしさっていうのはそこから漂ってくるにおいのようなものだね」と彼は言った。
「そんな弱音を吐くなんてお前らしくないな」
「ところがさ、おれはいま空虚さを強く感じているんだ。もうやっていられないよ」と彼は助けを求めるように言った。
私たちは再びしばらく沈黙した。私は彼のグラスに酒を注ぎたした。
彼はグラスを私の方に持ちあげてみせた。そのようにして彼は感謝を示したのだった。
「お前の空虚さはどこからきたんだ?」
「わからない」
「最初はどうだったんだ? その空虚さが初めてやってきたとき、お前はなにをしていたんだ?」
「最初は……」彼は口ごもりながら喋った。「おれはジムにいて、運動していた。ジムに来たらまず一時間のランニングをして、それから筋トレをするんだ。いつもそうしている。その日もランニングを終えて、備えつけの流しで顔を洗い、筋トレに移った。いくつものマシンを使いながら、さらに一時間くらいかけてゆっくりと時間を潰した。ふと気づくと、ガラス窓から夕日がさしこんでいた。いつもはブラインドがおりているから珍しいことだった。おれはちょうどガラス窓と向き合うかたちでマシンに座っていた。壁いちめんに張られたガラス窓で、すぐそこにある小道を、ランドセルをしょった子どもたちや、幼児をつれた母親たちが歩いていった。おれはそのとき太ももを鍛えていたんだが、やりすぎて悲鳴をあげた足をだらんとたらして、ぼんやりとしていた。窓の外に見える豊かな笑い声がこちらに届くことはなく、こっちも黙々と個人的な作業に没頭する人しかいなかったから、おれの周りに音はなく、静かだった。ジムの照明は夕方の遅くになると光量が増すんだが、まだその時間ではないらしく、ジムはだんだんと薄暗くなっていった。そのぶん、オレンジ色にさしこむ夕日の光線はくっきりと浮かびあがってきた。そしてそのときおれは自分が空虚感のなかに沈みこんでいるのに思いがけず気づいた。おれは自分がいまやっていたこと、目的としていたこと、それらに対して感じていた充足感を一瞬にして失った。おれは自分がなぜジムにいるのかわからなかった。もちろん運動することは健康にいいことだし、身体をほどよく動かすこと自体が楽しいものでもある。しかしそれがほとんど無価値なしろものであると気づいたんだ。いったい、そんなことをして何になる? ……身体は重かった、巨大な岩に押しつぶされているかのように重かった。おれは自分の人生が紙しばいのように薄っぺらいものであると感じた。誰かがおれの人生をくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に放り投げるのを見た。その誰かとは、まさしくおれ自身に他ならないんだが……」
彼がそんなことを言うのを聞いて、私は純粋に驚きだけを抱いた。彼の人生は、社会の上層に位置するというわけではないが、じゅうぶんに幸福な部類に属しているように私には見えていたからだ。大学生活を楽しみ、恋をして、結婚し、仕事に精をだしながら子どもたちの成長を見守る。それらの出来事には「幸福な生活」というものがたっぷりと詰まっているはずだ。赤い果粒のぎっしりと詰まったザクロの実を割ったときのように。
私はゆっくりと首を横にふった。
「違うんだ」彼は噛みつくように言った。「おれは本当の人生を生きていない。おれは他人の価値観を自分のものだと信じていたにすぎないんだよ。道ばたに転がっている、単純明快でわかりやすい、誰にとっても不自然ではなくて、むしろ優れているとみなされているキレイな石ころをさ。……退屈なんだ。おれは飽きてしまったんだよ、仕事にも、家族にも。柔らかく生ぬるい空気の牢獄に閉じこめられているような気分だ。とても耐えられるものじゃない」
「まるでノイローゼじゃないか」私は言った。「考えすぎだ」
「おれは考えているんじゃない、感じているんだ。いまここにある、生々しい感じとして」彼は言った。「リルケの詩にあるだろう? ほら、お前の言った〈オルフォイスへのソネット〉にさ。カルスト台地のほら穴に住む〈洞くつ鳩〉を、布をたらして振ることによって驚かせて、とび出てきたところを捕まえる、あの狩りについての詩。おれはその狩人になった気分だよ、ただし、ほら穴にたらした布をいくら振っても鳩たちは出てきてくれないんだ。あれと思って覗きこんでみると、……鳩たちは暗やみのなかで身じろぎもせず、丸い目でこちらをじっと見上げている。そして狩人は自分がやった仕事がムダに終わり、さらにこの方法がもはや意味をなくしてしまったのではないかと予感して不安に思う。リルケはその詩において、暗やみが光のなかへ投げ出されると書いた。だがおれの場合、暗やみは元の場所にとどまり続ける。狩人の、仕事が徒労に終わって沈んでしまった暗い心のなかに」