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カルスト台地での鳩狩り 第1話

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 彼と会うのは五年ぶりだった。彼は古い友人で、いままではだいたい一年ごとに会っていたから、これほどまで期間が空いてしまうのは初めてのことだった。都合があわなかったというわけではなく、互いに何となく気が進まなかっただけだ。私たちは五年ものあいだ連絡をとりあわなかった。そしてふと彼の存在を思い出した私は久しぶりに連絡をとってみた。そのときに前回の連絡から五年もの歳月がたっていたことを知って驚いたのだった。

 休日の夜に私たちは会った。私たちは飲み屋のカウンターに座り、日本酒をひやで飲んだ。店内は静かだった。奥の座敷では若い男たちが騒いでいたが、その声は私たちのところに届く頃には勢いを失っていた。

 私たちは黙ってそれぞれグラスを傾けた。二人ともよく話す種類の人間ではない。夏の終わりのうだるような暑さが身体から抜けていくのを静かに待った。注文した生酒は口当たりがよく、澄んだ水の流れの香りがひとくち飲むたびに立ち現れたが、長続きせず、惜しむ間もなく去っていってしまうのだった。

 私はつまみとして頼んでおいた生牡蠣に手をのばした。牡蠣は岩塩をしきつめた皿に見栄えよく並べられている。私は牡蠣をひとくちで食べ、頬のうちがわで舌を動かしてその内臓の苦さと生臭さを探した。

「この牡蠣はうまいよ」と私は言った。「食べないのか?」

 彼はただちょっとした笑みを浮かべただけだった。首をかしげて酒を飲んだ。

 私は遠慮せずにもうひとつの牡蠣を食べた。

「もう五年もたってしまったなんてな」私は言った。「時が経つのは本当に早い」

「おれたちはもうじゅうぶん老いたんだよ」彼は言った。「老いはおれたちからいろんなものを奪っていったが、時間感覚もそのひとつだ」

「悲しいね」

「悲しいだなんてすぐに思わなくなるさ。老いはそれ自体によってさらに老いを導く。つまり指数関数的に増悪していくからな。気がつけばあっという間に痴ほう老人だ……」

 私は彼の言いぶりに笑った。「やっぱりお前は詩人だね」

「違うさ」と彼は言った。そしてやっと牡蠣をひとつ取って口に運んだ。

 私と彼は大学時代に同じサークルに所属していた。私は小説を書き、彼は詩を書いた。私は一年もたたないうちに早々に文章を書くのをやめてしまったが、彼は最後まで詩を書き続けた。

「お前らはよくカメラで写真を撮るだろう?」と学生の頃の彼はサークル仲間によく言ったものだ。「でもその写真を現像したとき、必ずいくらかの失望を感じるはずだ。というのは、お前らは自分の見たものをカメラでしっかりと捉えたつもりでいるのだが、実際に現像されたものを確認してみると、それとは違う、別の風景がそこには現れているからなんだ。カメラの目と人間の目はちがう――言ってみれば当たり前のことだが、その微妙なちがいが、写真を目の前にしたおれたちには大きくはっきりと現れてくるんだね。詩も同じだよ。おれたちは言葉を使うのに慣れきっているが、おれたちがふだん使う言葉とはまさしく写真なんだ。ではおれたちが生身の目で見ているもの、それは言葉に対してのものそのもの、となるのだけど、それはいったい何なのか? ……それを知り、表現するための手段が詩なのだとおれは思う。言葉の外にあるもの、言葉の枠外にあるものを既存の言葉のくみかえで表現しようとする試み、それはとても苦しいものだ。例えばおれはいま悲しみについての詩を書こうとしている。けれど、悲しみとはとどのつまりどういうことなのか? おれはよくわからない。人は悲しみを語るとき、その悲しみが生じる原因しか語らない。つまり失恋したからとか、大学受験に失敗したからとかさ。悲しみは悲しみとしてでしか語りえない、でもおれはおれの悲しみについて知りたい。力不足なのはじゅうぶんわかっている。だからいろいろな詩人から勉強しているよ。とくにリルケはよく読んでいるんだ」

 リルケは彼のお気に入りの詩人で、その詩についてかつてよく話を聞いたものだった。彼に影響されて私も大学の図書館でリルケを探して読んでみたほどだ。いまではその内容をすっかり忘れてしまっているが、彼の方はどうだろうか。憶えているのだろうか、あるいは彼はまだリルケを読み続けているのだろうか? 一瞬だったが現実的に考えてみれば重たいくらいに長く思える、私たちのもとから過ぎ去っていってしまった時間は、彼からリルケをも奪っていったのだろうか?

 私は彼に聞いてみた。

 すると彼は想定外の反応を見せた。驚いたように口を少しあけてこちらを見たかと思うと、すぐに目をそらして不愉快そうな表情をした。私は自分が彼にとってなにかよくないことを言ってしまったのだと理解した。そして彼の様子を注視してみると、彼をとらえているのは不快どころではなく、まさしく苦しみであるということがわかった。唐突に直面した彼の苦しみに私は戸惑い、どうすればいいのかわからなくなった。

「読んではいないが、思い出すことはあるよ」と彼はぽつりと言った。

 私は後悔した。リルケについて話すことは彼に学生時代を深く想起させ、そのことが彼をひどく苦しめたのかもしれない。だが過去に学生時代のことについて詳しく話しこむことは何度もあった。では私たちが会わなかった五年間のうちに彼に何らかの変化が生じたのだろうか? しかしこれもにわかには信じられなかった。彼はさっぱりとした性格をしていたので、過去の失敗や恥についてくよくよ悩んだり、あるいは逆に過去を理想化して現在とつき合わせ、あれこれ愚痴を言ったりするような種類の人物ではなかったからだ。

 なら彼を苦しめているのは過去のことではなくて、つい最近の出来事に起因しているのだろうか。リルケをきっかけとして引き出される苦しい出来事があったのだろうか?

「リルケはもう好きじゃないのか?」と私は聞いた。後悔よりも好奇心が勝った。

「なぜそんなことを聞く?」彼は少しムッとして言った。

「リルケの書いた詩集、オルフォイスへのソネット。学生だったとき、ひどく気に入っていたじゃないか」私はかまわず話し続けた。「思い出す詩っていうのはそれだろう」

「オルフォイスへのソネット以外に、リルケについてお前が知っていることは他にないのか?」彼はわざとらしく顔をしかめてみせた。「それしか知らないからそう言うんだ」

「そうかもしれない」私は薄くなった頭を撫でながらごまかした。「だが懐かしくないか。それとも、懐かしいとさえもう思わないか?」

「リルケの詩は好きさ。しかし……」彼は躊躇した。

 私は言葉の続きを待ったが、彼は押し黙ってしまった。

「最近なにかあったのか?」と私ははっきり問いかけてみた。

「なにかって?」彼は酒をぐいと飲んだ。その声には怒りが含まれていた――リルケの話を蒸し返したりなんかしたら承知しないぞ、と彼は暗に語っていた。

「そりゃあ、いろいろあるだろう」と私は言って、視線をそらし、そのいろいろについて考えをめぐらした。「娘さんはもう大学を卒業したんだっけ?」

 彼はグラスを手に持ち、うつむいたまま頷いた。「あいつにしてはけっこういい会社に入れたんだ。がんばっているだろう」

「順調なのか?」

「順調だよ。なんの心配もしてないよ」

「奥さんは? 元気か?」

「ピンピンしてるよ。少し元気すぎるくらいだから、軽い病気にでもかかって多少なりともその勢いを失ってほしいくらいだ……」

 私たちはそのまま互いの家庭の状況についてしばらく話した。そうしながら酒を新しく追加し、焼き牡蠣と金目鯛の煮つけを注文した。彼が私に返す言葉からは生気がだんだんと失せていき、やがて沈黙が再び私たちを包みこんだ。煮つけをつついていると店のドアが開かれ、数人の客が入ってきて奥の座敷へと案内されていった。私たちの後ろを通り過ぎると、彼らが外から抱えてきたざらつく残暑の空気が私たちの肌をかすめていった。